はじめに

万葉集(萬葉集)の歌が詠まれたのはおもに7世紀後半から8世紀前半にかけてです。

西暦660年に百済が、668年に高句麗が、新羅と唐の連合軍に攻め滅ぼされ、多くの王族、貴族、学者、僧侶、職人達が日本列島に亡命して来ました。その数は少なくとも数千人、15~20万人という人もいます。

それ以前も朝鮮半島と日本列島のあいだの交流は盛んで、多くの人が朝鮮半島から渡来していたようです。

.その人たちは多くの歌を自分達の言葉で、すなわち古代朝鮮語(百済語、新羅語、高句麗語、伽耶語、耽羅(たんら、済州島)語など)で残しました。

またその子孫達は古代日本語(倭国語)とのバイリンガルで、古代朝鮮語と古代日本語を織り交ぜて歌を詠みました。それらの歌を集めたものが万葉集です。

しかし当時は文字は漢字しかありませんでした。また古代朝鮮には、古代朝鮮語を漢字で表すための「吏読(りとう、イドゥ)」という独自の表記法がありました。万葉歌人達はその吏読とそれまでの日本列島での漢字の使い方を巧みに利用して万葉集の歌を書いたのです。

しかしおそらく代が下るにしたがって、渡来人の子孫も日本語しか解しなくなったと思われます。そして二百年の後、平安時代にはすでに漢字だけで書かれた万葉集歌は誰にも読めなくなってしまっていたのです。

そこで村上天皇は951年、源順(みなもとのしたごう)ら「梨壺の五人」といわれる学者達に万葉集の解読を命じます。今日までつながる万葉集解読の始まりです。

それ以来、多大な努力が万葉集解読に注ぎ込まれてきましたが、巻1の9番の額田王(ぬかたのおほきみ)の歌のように未だまったく読めない歌、千を越えるという「枕詞(まくらことば)」と名付けられた意味不明の修辞、何とか解読したものの、あいまいでもやもやした、意味の通らない歌の数々。

それもそのはず。古代朝鮮語で書かれた歌を、漢字で書かれているために日本語で読めると誤解して読み解いたのが、「梨壺の五人」以来の万葉集の解読だったからです。

そのためか万葉集は明治時代になるまでは、ほとんど一般には返り見られない歌集でした。歌人達の理想は「古今集」だったようです(「万葉集の〈われ〉」 佐佐木幸綱 著、26ページからの「万葉集と近代」参照)。

1989年に韓国の作家李寧煕(イ・ヨンヒ)氏がその著書「もう一つの万葉集」とそれに続くシリーズにおいて万葉集を古代朝鮮語で読み解いて、やっと万葉集は本来の姿を現すことができました。「もう一つの万葉集」はベストセラーになりました。

しかしそこに現れたのは、従来の解読とはかけ離れたまったく異相の内容だった(とりわけ、あけっぴろげといってもいいぐらいのストレートな性的表現が氾濫していた)ため、各界の猛反発を食らいました。

しかし今まで日本語と思われていた漢字の羅列(万葉集が漢字だけで書かれていることは、どんなに強調してもし過ぎるということはありません)を古代朝鮮語で改めて読み直したのですから、まったく違う内容が現れても何も不思議はありません。

我々は万葉歌人達に注文を付けるわけには行かないのです。認識を改めなければならないのは私たちの方です。

このブログでは李寧煕氏の万葉集解読の一部をご紹介します。興味を持たれた方は、図書館や古本屋、オークションなどで李寧煕氏の本を見つけてください。残念なことに「もう一つの万葉集」シリーズは絶版になってしまったからです。

私自身は李寧煕氏の説を100パーセント正しいとは思っていません。むしろ多くの細部において疑問を持っているくらいです。しかし総合的に判断して、万葉集が古代朝鮮語で書かれていることは間違いありません。これからの万葉集研究家にとって朝鮮語の習得は必須でしょう。

万葉集には4516首もの歌が収められています。李寧煕氏がこれまでに解読して発表した歌はまだわずか百余りに過ぎません。その他にも古事記や日本書紀に記された歌(記紀歌謡)もあります。広大な未開の研究領域が残されているのです。

これからの万葉集研究家の方たちが、現在の国境線に惑わされずに、広い視野に立って解読を進めて行かれることを願っております。

管理人

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