百済・高句麗の滅亡と万葉集
万葉集が書かれた時期は激動の時代だった。
西暦660年に百済が滅亡し、663年に白村江の戦いで、倭国・百済遺民の連合軍が、唐・新羅連合軍に敗れる。668年には高句麗が滅亡する。大量の百済・高句麗の王侯貴族や知識人や職人達が日本列島に亡命してく来る。その数、何千人とも何十万人とも言われる。
そういう時期に万葉集は書かれている。
山上憶良も百済の出身だといわれている(一説では4歳の時父とともに日本列島に渡って来たとも)。万葉集の歌人の中には、はっきりと渡来人だと書かれている者もいる。それも日本の権威ある万葉研究家が言っているのである。
万葉集の中に百済語や高句麗語などで書かれた歌がたくさん入っていたとしても何の不思議もないどころか、当然なことではないか。
それなのに、万葉集は朝鮮語で書かれていないとか、読めないとか、古代朝鮮語の資料はほとんどないので読めるわけがないとか、あまりにも簡単に決め付ける人が多い。
このような人たちは古代の渡来人にまで日本語を押し付けたいのかなあ、と思ってしまう。
7世紀以前の日本列島および朝鮮半島は、今日の日本および韓国・朝鮮とは違うのである。今日の国境感覚で考えてはならない。
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コメント
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あの時代に何十万人?
朝鮮半島の人口が40万人の時代に?
これはこれは珍説ですな。
ちなみにその頃は陶芸家は朝鮮に5人しか存在しませんよ。
それと渡来人は殆どが支那人です。
当時の朝鮮人は読書きが出来ませんでしたからね。
基本的な知識を持っていれば分かるはずですよ。
投稿: 劇訳コメンター | 2013年10月16日 (水) 12時01分